■ドイツの脱原発と日本(7)

■釈放後の独学者たちの戦後貢献度
■ドイツも核兵器を持とうとした!
■アインシュタインも核兵器廃絶アッピール
■これを歴史の皮肉といわずして何というべきか
■おまけ

そのイギリスの「フアームホール」に拘留=幽閉されていたドイツの物理+化学社10人ですが、釈放後は、母国に帰り、廃墟になって陰も形もなくなったカイザー・ウイルヘルム研究所の代わりに物理学者マックス・プランク(1918年、ノーベル物理賞受賞)にちなんで1948年新しく「マックス・プランク研究所」を創設しました。
初代所長にはハーンが就任しています。そして、戦後の自然科学分野における学問発展のために尽力し、貢献しています。
そればかりか、彼らは自然科学者の立場にあって、世界の物理・化学者と共に、一貫して核兵器開発には絶対反対を唱えその姿勢を貫き通しました。

例えば1955年7月15日にはハーンの呼びかけで,世界のノーベル物理化学分野受賞者を含め52名の著名な物理+化学者達の連名で「核」悪用反対「マインナー宣言」(この年、ドイツとスイスの国境にあるボーデン湖の近くにて物理+化学者国際会議が開催されその地名にちなんだ)を行なっています。
次は1957年4月12日、「ゲッテインゲン宣言」(戦後ゲッテイングはハーンを中心に物理+化学者の拠点となった)を行ないました。

この宣言にはドイツの名だたる物理+化学学者18名(ハーンはむろんハイゼンベルグ、ヴエイツゼッカー、加えてユダヤ学者ゆえにナチス党に迫害され1933年イギリスに亡命し、、1953年再び西ドイツへ帰国、1954年のノーベル物理賞では英国人として受賞したマックズ・ボルンも)連名で「たとえどのような状況にあっても、西ドイツにおける核兵器製造には一切協力しない」との声明を発表しています。

■ドイツも核兵器を持とうとした!
当時のドイツは第二次大戦後で敗北して以後1949年まで戦勝4カ国によって、四つに線引きされそれぞれ分断統治が行なわれていました。
その後米ソ対立、冷戦激化と共に、西ドイツは米英仏各国による占領統治を解かれ、新たに1949年西ドイツ国家としてスタートしました。その延長線上で西ドイツはアデナウアー体制の下、安全保障を整備し、1955年NATOに加盟、次いで、1957年新しく「ドイツ連邦軍」を創設しました。この時点でアデナウアー首相は西ドイツも核兵器開発に乗り出すべきとの主張を行なったのです。

これに即刻、異を唱えたのがハーンでした。
彼は、ハイゼンベルグやK・ヴイツゼッカーに働きかけ、計18名の学者と共に「ゲッテインゲン・マニフエスト」を作成、発表しアデナウアーの核兵器製造論を牽制したのです。

この宣言は西ドイツだけにとどまりませんでした。

東西に分断された東ドイツでも東ドイツの物理・化学者たちまで、西ドイツのかつての仲間だった学者に呼応し同じ働きかけを行ない世界に向けて声明を出しました。

■戦後アインシュタインも核兵器廃絶アッピール
いや1955年にはアインシュタインも、バートランド・ラッセルと共に「ラッセル=アインシュタイン宣言」を当時の世界のトップクラスの科学者、日本では湯側秀樹と共に、米ソの水爆実験競争という事情ヲ憂慮し、核兵器廃絶、と同時に科学技術の平和利用を訴え宣言文を発表しています。

これで読者の皆さんには、なぜドイツが「脱原発」にことのほか執着するのか、熱心なのか、少しはお分かりいただけたのではないかと思います。

■これを歴史の皮肉といわずして何というべきか
要するにドイツにおける「脱原発」の意味するところとは、そもそも、ハーン自ら発見したその核のマイナス面=(大量殺戮兵器としての悪用)との戦いにそのルーツがあるということなのです。。
もしもこれがあの忌まわしい戦争のない平和な時代に発見されていたとしたら、そして、原子力平和利用、つまり原子力エネルギーの創出という面から、スタートしていたとしたら、ハーンも書くも核アレルギーにはならなかったかもしれない。そして、れば、むしろこの開発に積極的に手を貸しそのt背中を押していたのかも知れまい。

そう思うと、
これこそ、歴史の皮肉といわずして何と言ったらいいのカと思う今日この頃であります。

おまけ:小林 幹雄 氏(筆者註:技術屋さんだそうです)より。
<<クライン孝子様よりメールを頂き、S社のS様に連絡しました
 
さて、話題は変わりますが、クライン孝子様のメールマガジンにおきまして、ドイツ人の学者が戦後どのように利用されたのかの記事を拝読し、改めて「大計なき国家・日本の末路」日本人とドイツ、それぞれの戦後を分けたもの

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396613423/chsakurajp >>

を読み返させて頂きました。諸外国の思惑の中で、どうドイツは、自律性を培ってきたのか、日本は翻弄したのか、日本の今後の事を改めて考えさせられました。
今回の震災で、日本人の整然な行いが国際的に評価されていますが、主導者が愚かな場合どうなるのか?
実はわたしの亡き父親は終戦時、北支に派遣され火事場泥棒的ソビエトによりシベリアに5年間抑留されました。整然としていた日本軍でしたが、
あまり、戦火の事を父親は語りませんでしたが、子供心に多少、父親が語った事を猛烈に記憶しています。ソ連軍の捕虜に課した「ノルマ」非道な扱い
日本人の赤化工作、日本新聞を作り日本軍幹部をつるし上げ対象にし、二等兵クラスの日本への帰還願望を利用し、逆転現象を生み出し指導者にし自己批判を迫り、日本人の分断化を行った事。
しかし、わたしの父親は耐えたそうです。

帰国後、父親は警察官になり定年に至るまで職務を全うしました。
しかし、父親の職務中知った警察内部の一部腐敗に悩んでたみたいでした。
  
また、話は飛びますが、戦後、多くの日本人技術者が火事場泥棒に長年抑留され、その技術が利用された事も事実です。
日本人悪玉論を展開する日教組教育には子供ながら疑問と軽蔑しておりました。
自分なりに近代史、戦記物を色々読み、日本人の悲劇、苦闘を感じておりました。
  
自死した上方落語家、先代林家 小染が、わたしが少年時代ラジオで軍歌を流していました。
今では媒体は軍歌はタブーであり歪曲した考えで流れる事はありません。
たしかに、戦意高揚に利用されたかも知れませんが、それも、時代の文化であり、作詞者のアル思いをくみ取る事ができると個人的に思います。

これからも、クライン孝子様の執筆を楽しみにしております。
お身体を大切にされ、日本のためにも、お過ごしくださいませ。ありがとうございます。>>