■ドイツの脱原発と日本(6)

■もはやどの国もブレーキを掛けようとしなかった
■ハーンはフランクフルト生まれ
■不思議なハーンとマイスナーの巡りあわせ
■囚われの身で知る広島原爆投下衝撃ニュース
■いずれにしろ「戦争に負ける」ということは?

このようにしてアメリカは世界で初めて大量殺戮兵器原子爆弾を製造し、第二次世界大戦において大勝利を収めました。
効果はてき面でした。

■もはやどの国もブレーキは掛けようとしなかった
一度その効果=甘い汁を吸ってしまったのです。もはや誰も、どの国もこの兵器製造にブレーキを掛けようなどと思わなくなってしまいました。
その核兵器製造ですが、
アメリカの次は
ロシア(旧ソ連)が1949年
イギリス  1952年
フランス  1960年
中国  1964年
インド、1974年
イスラエル  1979年?
パキスタン 1998年
北朝鮮  2006年
とこの兵器つくりに関しては、人類を含めぜんせいぶつにとって、危険極まりない兵器と知りつつ、拡大こそすれ、縮小など思いもよらない。危険なおもちゃとはいえ、自国を守るために核兵器を持つことが、いかに安全であるか、つまり核抑止力の効果ヲ充分知る事になったのです。

一方こうした動きの中でドイツグループはいかなる対処で臨んだのでしょうか。
当時のドイツの代表的な物理や化学者の第一人者といえば、先述した1944年にノーベル化学賞を受賞したハーン、
1932 年に31歳でノーベル物理学賞を受賞したハイゼンベルグがいます。
この二人に加え忘れてならないのは物理学者、カール・F ホン ヴアイツゼッカーです。。
ちなみに彼の父はヒトラー政権下、外相だったリッペンドロップの下で外務次官を勤めましたし、戦後、コール首相の下、彼の弟R・ホン・ヴアイツゼッカーは大統領に就任しています。

■ハーンはフランクフルト生まれ
ヴアイツゼッカーは1929年生まれで彼ら二人よりはずっと若く、従って、先輩からは可愛がられる身分にありました。
余談ですが、私は二度氏とお会いしたことがあります。つい最近東大名誉教授小堀桂一郎先生と電話でお話していて、この話に触れましたところ、実は小堀先生、東大在任中、かなり長期間ハイゼンベルグとヴイアイツゼッカーに関し講義されていたそうで、「学生たちには好評だった」というお話を伺いました。
今一つハーンはフランクフルト生まれで、その銅像
がかつて生家だった場所にあり、つい最近そのことを知った私は、そうっとお花を銅像の前にお供えしてきました。

■不思議なハーンとマイスナーの巡りあわせ
ハイゼンベルグやヴアイツゼッカーもそうでしたが、ハーンもヒトラー政権下で、ユダヤ人学者が迫害されますと、彼らの防波堤となり、同志や弟子達を密かに外国へ送り出し亡命の手助けをしたものです。
とりわけ彼が生涯友と呼び、同志として同じ研究室で研究荷携わってきたリーゼ・マイスナー女史にあっては、ナチの危険から守るためにスエーデン亡命に手を貸しています。
戦後ハーンとマイスナーは再会し、頻繁にスエーデンとドイツの間で手紙のやり取りをしています。
ハーンはその後妻帯していますが、二人の友情は変わらず亡くなる直前まで続きました。
(註:ハーンの孫がこの手紙を一冊の本にして上梓、私も最近一読)。
二人の縁は誠に不思議な絆で繋がっていたらしく、、マイスナーは1878年、ハーンは一年後の1879年(フランフフルト生まれ)に生まれ、ハーンは1968年7月28日、マイスナー女史は、同年10月27日、ハーンの死後3カ月後、彼の後を追うようにして亡くなりました。

それはさておき、ハーン、ハイゼンベルグ、ヴアイツゼッカーの3人ですが、ドイツ敗戦直後、正確には1945年7月3日から翌年1946年1月日まで他の7人、合計10人主だったドイツの物理+化学者はイギリスのケンブリッジ寄り北方16キロにある「フアームホール」に抑留されています。
これはAlsos」ミッションオペレーションというイギリスの諜報機関による工作の一端で、彼らの抑留生活とは、広い庭付きのお城とも言うべき邸宅に、一人ずつ個室を与えられ、三食付、時々、尋問に応じるという実に贅沢で寛大なものでした。。
ただし、あらゆる所、特に部屋という部屋には盗聴器が仕掛けられ、彼らの会話は一部始終盗聴され、記録されたものに関しては全て、アメリカに報告されています。

アメリカでトリニティ実言われる人類最初の核実験が行なわれたのは1945年7月16日のことです。
その翌日1945年7月17日から8月2日まで、ベルリン郊外のポツダムにおいて、アメリカ、イギリス、旧ソ連3カ国の首脳トルーマン、チャーチル、スターリンによる第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合うポツダム会談が開催されましたから、アメリカに真意は明白でした。
「この実験の成功をこの会談において誇示することで、戦後処理において少しでもアメリカにとって有利にことを運ぶ狙いがあった・・・・

「フアームホール」に拘留状態に置かれたドイツの10名の物理化学者にとってはこのようなことは知る由もありませんcでした。
ただ一つ、彼らにとって、ショッキングな出来事として明確になったことがあります。
それは8月6日、日本の広島に原爆が投下され罪なき一般市民に多大な被害がもたらしたことでした。

■囚われの身で知った広島原爆投下衝撃ニュース
イギリスのBBCでこのニュースが流れたのはで8月6日夜の19時でした。
その前に夕食を済ます学者達は、その日に限ってその席にハーンの姿がないのに気が付き不信に思っています。
やがてその謎は解けました。
学者達の監視役であるリットナー少佐が、気を利かしてハーンを別室に呼び出し、あらかじめこの事実を彼に告げたからでした。
むろん、核分裂を発見した当事者だったハーンのことです、
そのショックは大きく、一同応接室で19時、ラジオでこのニュースを聞いた時のハーンは頭を抱え呻くような声を出していたそうです。

二度目、21時、このニュースを再び耳にした後、彼らはそれぞれ自室へと戻りました。
もっともハーン以外の学者達は、ハーンが自殺でもしないかと心配して、かわるがわる彼が熟睡するまで隣室で、息を潜め監視していたそうです。

■いずれにしろ「戦争に負ける」ということは?
いずれにしても「戦争に負ける」ということは実はこういう残酷な事実を突きつけられることだったのです。